2014年5月12日月曜日

親子のクマに思うこと

お昼に、次男の通う小学校から電話がありました。

「クマが出たという連絡が入ったのですが、
息子さんはいつも通りバスに乗せて帰宅させてもいいでしょうか?
という確認の電話だったのですが、
よくよく聞いてみると、私たちの住む地区の北の方で親子のクマが出て、
仔グマは捕獲されたが親グマは手負いで逃げている、
ということなのでした。

人里に「出てきた」というだけで、
母から引き離され、殺されるであろう仔グマと、
仔を奪われ、ケガをして山を歩き逃げる母グマ、
2頭のクマの悲しみが一時に去来して、電話の前からしばらく動けませんでした。

クマはアイヌ語では「キムンカムイ」、山の神。
森羅万象の神を畏れ、敬うことを忘れ、
「駆除」という言をもって正当化される母仔グマの運命に、
ただただ涙がこぼれます。

ここ北の大地においては、
「人里に現れたクマが駆除された」
という報道は特に珍しいものではありません。

でも、なぜクマが人里に出てきたのか、
そうしなければならなかった事情は何であったか、
そのクマは人里で一体何をしたのか、
ひとつひとつの出来事を深く想いを馳せ見つめなおしてみた時、
私たちがいかに不遜であるかということに、
改めて思い至るはずだと思うのです。

自然と人との共存が叫ばれて久しい昨今ですが、
人はずいぶん自然から離れてしまったようにも思います。
もしかするとその象徴が、「駆除」という言葉かもしれません。

本来「狩猟」というのは、
地球から「生きる糧」を頂くこと。
そこには感謝があり、生かされているという思いがあり、
同時に申し訳ないという心があると思うのです。

「人間にとって有益か、有害か」
この社会が、その一事のみの尺度しか持ち合わせていないのだとすれば、
向かう未来に希望など見出せません。
「我さえよければ」
その思いが向かう先など、破滅以外にないのですから。

もうクマが殺されませんように。
これ以上、クマが殺されませんように。
どうか。

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